終りすぎ  

靴をはいて家の中にいて、スリッパで外にでる。  
騙されないための唯一の方法は、象徴的秩序から一定の距離を保つ、すなわち精神病者の立場を取ることである、と。関係、目的、意味のために、統合性を保つよりも多重人格のままでいい。  
(ギャラリーから作品が消えたので、何もかくことができません)  
ガブリエル・オロスコの『オレンジ』は、ギャラリーには何もなくタイトルが書かれたのみで、窓の外を覗くと隣接されたカーテンウォールのビルの全ての階の窓際に、オレンジのボールが置かれている。『ヨーグルトの蓋』は、広大なギャラリーの壁に透明なヨーグルトの蓋が4つ貼り付けられているのみ。高柳恵理の『みかん』は、みかんの中味は食べて皮のみを再び貼り合わせて元に戻す。『ハンカチ』は、ハンカチを様々なかたちにたたんで正方形に積み重ねる。  
(そんな作品はつくろうと思えば誰にでもつくれるんじゃないのか)  
どこにでもある素材を用いながら、つくる痕跡を消して日常に戻す。つくることへの疑いから不用意につくるとを拒否し、そこにあるべくしてあるという存在のありようを示す。ヴォルフガング・ティルマンスの写真における被写体の自然なポーズは、ティルマンスの指示である。現実にありそうな表現を取り入れて写真を撮る。  
(プライヴェイトな退屈な日常には興味なし)  
マテリアリズムの崩壊からイメージのみへ。それもイメージがある対象を比喩するのではなく、それ自体のイメージとして。対象を比喩する変わりに、物にイメージを同化させることで現実の中に潜ませる。  
(どうやって作品をみればいいのか)  
アートと現実を区別する境界がなくなり、現実を再トレース、次の現実をつくる(当り前)という、物体としての作品をつくるつくらないが関係なくなっている。  
現実と区別する境界がなくなった変わりに、もちろん領域の横断もありうる状態にある。 デザイン、建築、まんが、音楽、映画といった専門分野として確立された壁の高さにより、情けなくも知識不足で相手にもならない作品も多いが、その壁を越え他の分野を利用してアートと現実の境界を同化しようとする作品もでている。  
ホンマタカシが建築写真を撮っている。ビデオも撮るし建築模型も撮る。彼の撮影したアトリエワン設計の『川西町営コテージ』は、建築物としては、フレームの中に階段の端の五段のみしか存在せず、それ以外は周辺の緑と池のみの構成となっている。しかしこれは、まさしくアトリエワンの設計の意図を忠実に、またそれ以上に表現している。建築のポートレイトである。建築家はこの写真に表現されているものから設計図をつくり、建築化したのだろう。事実の建築物をみるより、イメージの源へ連れていってくれる。ホンマタカシが建築と写真の壁を越えていったように、マシュー・バーニーは映画をつくり、ピピロッティ・リストはポップミュージックのビデオクリップのように映像をつくり、瓶の中などに投影したりする。これらは、デザイン、建築、まんが、音楽、映画といった専門分野をただの現実に戻しつつ、既存の構造を捻り、高い壁の上を覗かせてくれる。  
(イメージだけ? みなければみれるの?)  
方向はなくなり、世界とつながろうとする必要もなくなり、制度、関係をなくし、あらゆるものを均等に観察しながら、ぎりぎりアートとしてみえるものを懐にしのばせながら、 全てアートなのだという瞬間を隠れながら覗く。  
(精神病者でもあるけど、実は医者でもあるのか)  
日常に戻って、万を持すことはできるようになったのかもしれないが、飛び出す瞬間をどうつくるか。飛び出す瞬間をみつけて飛び出したところで、飛び出したことをわかってもらえないかもしれない。それが新日常かもしれないし、ただの日常かもしれない。  
(さらに日常も疑うべきなのか? そもそも日常などないのか)  
病名不明な精神病者を医者は治したい。医者が精神病者自身であっても。でも病はわからないし、患者は治す気もないが、医者も治療できないまま治療し続ける。  
めちゃくちゃな時系列や、つくりあげられているかもしれない日常の中身を探る、そこから飛び出るまたは探るのをやめた、其処そしてその時が現在であり、日常であろう。  
『あらゆる疲労の彼方で、彼は可能なことと決別するのだ。「さらに終わるために」』
---ジル・ドゥルーズ  
(作品という呼びかたはいらない)  
アーティストはただ生きている。

 

木野評論31号 
2000年アートレビュー
発行  2000年3月
編集、発行 京都精華大学情報館
発売 株式会社青幻舎

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